チェンマイの園芸展は『ランの花がイッパイ!』続・チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』

2019年08月17日

チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』


8月15日の終戦記念日、チェンマイでも2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしましたが今年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加いたしました。

大東亜戦争中、チェンマイはインパール作戦の駐屯地となり、この『ムーンサーン寺』には野戦病院がありました。この地で多くの日本兵がお亡くなりになられました。
慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友によって建立されたものです。
毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。

インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

ムーンサーン寺は、旧市街の南門「チェンマイ門」を出て、ウアライ通りに進みます。約500m先の左手に『白牛の祠』があります。その祠の左側に銀を模した門(左)から細道を入った約100m先にあります。
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ムーンサーン寺の真ん中の建物は本堂です。
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本堂の中にある仏像です。
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本堂の壁には、過去世の釈迦を描いた絵があります。
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境内には銀細工を模したアルミ細工があちらこちらにあります。
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このお寺のあるウアライ通りは古くから銀細工の村として有名であり、今でも銀細工の工房が軒を連ねるエリアで、毎週土曜日の夜には歩行者天国となり、ナイトマーケットが開かれています。
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右側が本堂で左側の建物が郷土資料館です。その前に慰霊碑が建てられています。
タイは雨期に入っているので、地元チェンマイの人たちのおかげで青いテントも張られていました。

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受け付けは9時から開始されました。
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慰霊碑(真ん中)の両側には日本とタイの国旗が飾られていました。
この慰霊碑には戦後、ご戦友とご遺族により『戦友よ安らかに眠れ』と刻まれ、1970年に建立されました。

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慰霊碑の後ろの建物には、郷土資料館があります。
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その資料館には、日本軍の遺品や写真などが展示してあります。
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この資料館は普通は公開していません。特別な時に公開します。
僧侶にお願いすれば、開けてくれるかもしれません。
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日本軍が使った古井戸も保存されていました。
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慰霊祭には、地元チェンマイの人たちも参列していました。
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onaga1951 at 08:00│Comments(0)行事 

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