2014年08月
2014年08月30日
サンデーマーケットはイベント盛りだくさん!
この前の日曜日に旧市街で行なわれているサンデーマー
ケットを見に行きました。このマーケットは世界中から観光
客が押し寄せることで有名ですが、その日はイベントが3つ
もあって、見物した人々を楽しませてくれました。
サンデーマーケットは、毎週日曜日の夕方から旧市街のター
ペー門周辺を中心に開かれている市場で、単なる物の売買だ
けでなく、チェンマイの文化、歴史が凝縮した形で表れているの
で、見所がたくさんあります。タイ国内はもとより、世界中から大
勢の人が訪れます。
3人の王様像広場の前で来年のアセアン統合を目指しての
イベントが開かれていました。
アセアン諸国の民族衣装姿で踊りが繰り広げられていました。
そのそばで軍事政権主催のもう1つのイベントも開かれていました。
軍事政権は5月22日に発足以来、「幸せを取り戻そう!」の
スローガンを掲げて、その政策を推し進めてきました。その奨
励の一環として、サンデーマーケットでも歌やダンスを主催しています。
最近の人気のあるタイの歌謡曲を歌っていました。
司会はタイ語(左)、英語(まん中)、日本語(右)の順序で行なわれました。
普通のイベントで司会が日本語で話すのを初めて聞きました。
普通のイベントで司会が日本語で話すのを初めて聞きました。
後半はイサーン(タイ東北部)の歌やダンスが繰り広げられました。
イサーンの民族衣装や伝統楽器です。
イサーンとは、タイの東北地方のことです。
イサーンは、北イサーンと南イサーンとに分られます。
北イサーンの住民の多くはラオス語に非常に近い言葉(イサー
イサーンは、北イサーンと南イサーンとに分られます。
北イサーンの住民の多くはラオス語に非常に近い言葉(イサー
ン語とも呼ばれる)を母語とするのに対し、南イサーンには、
高地クメール語(カンボジアの公用語とは、(微妙に異なる)を
話すクメール系住民がいます。 ただし、タイの他地域と同様、
公教育はすべてタイ語(国語)で行われます。
文化的に中央部とは異なります。モーラムと呼ばれる独特の歌謡
曲を持つほか、北イサーンを中心とする地域では、ぱさぱさとした
いわゆるタイ米を主食とせず、インディカ米のもち米を主食とします。
広く知られるイサーン料理としては、ラープ、ソムタム、ガイヤーンな
どがあり、ソムタムに用いられるプラーデック(醗酵魚)やプードーン
(醗酵蟹)もイサーンの調味料として有名です。
イサーンの人口はタイ王国総人口の約三分の一を占めます。
イサーンの人口はタイ王国総人口の約三分の一を占めます。
地域の主な生業たる稲作の大部分は不安定な降水に依存する
天水田で行われており、その収量は低くかつ不安定で、イサーン
はタイでも最も貧困な地区とされてきました。加えて言葉遣いもタイ
標準語とは若干異なることから、中央のタイ人によっていまだに差
別(侮蔑)の対象とされることも珍しくないです。
次の出番を待っているイサーンの民族衣装姿の踊り子のメンバーです。
2014年08月28日
2014年08月26日
続・チェンマイの『戦没者慰霊祭』
終戦記念日の戦没者慰霊祭がチェンマイでも行なわれ、
私はバーンガート慰霊祭に参加いたしました。
その日の朝は昨日から日本の梅雨時のようにシトシトと
小雨が降り続いていましたが、慰霊祭が始まる頃は、すっ
かり雨も止んで、天気は快晴に向かっていきました。
バーンガート慰霊碑
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の
敷地内には約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑が
あります。チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、
車で1時間ぐらい掛かります。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された
東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方
面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻
作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮
政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的
として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところと
なった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐち
れんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付
近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・イ
ンド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、
7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った
悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘
能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの
犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代で
もしばしば引用される。
慰霊祭は、高久実行委員長の開会の辞で始まりました。
続いて、『君が代』の斉唱がありました。
その次に、黙祷を1分間いたしました。
その後、藤井チェンマイ総領事の来賓挨拶がありました。
続いて、大口ブアトーン会代表の来賓挨拶がありました。
ブアトーン会とは、第2次大戦での戦没日本兵への慰霊と、
タイから出撃または引き揚げてきた日本兵を温かく見守って
くれた地元タイ人への感謝の気持ちを絶やさないことを主旨
とした、在タイ邦人による「ブワトーン会」が去年の11月13日、
バンコクで発足しました。
その次に、セリー・スワンナペッチ氏(慧燈財団副理事長、
元バーンガート中高校校長)の来賓挨拶がありました。
2014年08月24日
チェンマイの『戦没者慰霊祭』
8月15日の終戦記念日、チェンマイでも2つの会場で戦没者
慰霊祭が行なわれました。私は今までは旧市街から南側に
あるムーンサーン寺の慰霊祭に参加していましたが、今回は
初めてメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしました。
バーンガート慰霊碑
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地
内には約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。
チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐ
チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐ
らい掛かります。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東
インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を
根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を
未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援
のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画さ
れ、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦
を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、
同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出
したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と
補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下
され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始され
る(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽
視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を
喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
校門の横には、日本語でバンガートウィタヤーコム校と書かれてあります。
学校のグランドでは、中学生たちがボールゲームをしていました。
この日はボランテァ活動の日で、女の子はガールスカウト姿をしていました。
もちろん男の子はボーイスカウト姿です。
慰霊碑は学校の敷地内にあります。
慰霊碑の入口の周りには休憩所やトイレも設置してあります。