2016年08月

2016年08月30日

ワロロット市場界隈にある2つのお寺の『中元節(旧盆)』


今年の中元節(旧盆)は8月17日(水)に行なわれました。チェンマイの中華街と言われているワロロット市場界隈にある2つの中国寺を訪れました。この2つのお寺には、中国系タイ人がお供え物を持ってお参りし、先祖崇拝をしていました。 

 お盆は、仏教用語の「盂蘭盆」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれています。 盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もあります。中華文化では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする慣習があります。旧暦の七月朔日に地獄開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられます。
台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われています。日本でも中国の福建省との関係が深かった沖縄は、今でも旧盆の行事が盛大に行なわれています。


中国門は旧市街からワロロット市場へ向かうチャンモン通りにあります。
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ピン川沿いの通りにあるお寺です。
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いろいろな中国の神様が祀られています。
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中国寺は、とても色彩豊かです。
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先祖崇拝の焼香をしています。
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紙のお金を燃やしています。
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これから、本堂へお供え物を持って行きます。
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本堂の中です。守護神の龍が祀られています。
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三国志で有名な蜀の関羽将軍でしょうか。
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中国のお線香を持って、お供え物をするところです。
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もうひとつのお寺はワロロット市場の西側通りにあります。この『関帝廟』には、三国志で有名な蜀の『関羽将軍』が商売繁盛の神様として、祀られています。
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こちらでも中国のお線香を持って、先祖崇拝の焼香をしています。
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たくさんの果物などがお供えされてありました。
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紙のお金を燃やしています。
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これから、本堂へお供え物を持って行きます。
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2016年08月28日

チェンマイ最大の市場『ワロロット市場界隈』


チェンマイ最大の市場と言われている『ワロロット市場』は、正確には2つの市場に分かれています。メイン道路を挟んで東側にあるのが『トンラムヤイ市場』で、西側にあるのが『ワロロット市場』です。
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『トンラムヤイ市場』は、肉、魚、野菜などの生鮮食料品や様々なお花、衣類、及び日用品を扱う小さなお店がひしめき合っています。この市場には、地元住民だけでなく、チェンマイ近郊からも多くの買物客が訪れます。しかし、ワロロット市場のように外国人観光客が市場内に入ることは、あまりありません。
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トンラムヤイ市場の南側通りにある揚げパン屋(朝だけ営業)です。
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この揚げパン屋は世界各国のマスコミに紹介されるほど有名です。動物やいろいろな形の揚げパンを作っています。
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いつもお客さんで賑わっているお店です。
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私は豆乳(右)と普通の揚げパン2個を食べました。その料金は10バーツ(約33円)でした。
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この市場の西側の通路には多くの果物屋が並んでいます。ドリアンは中国人観光客に大変人気があり、値段もだいぶ高くなっています。左側のドリアンが150バーツ(約500円)、右側のドリアンが250バーツ(約800円)です。
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その他の果物は、雨が降らないので、不作が原因で高くなっています。ミカンが1k50バーツ(約170円)です。去年までは30バーツでした。
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ドラゴンフルーツも1k40バーツですが、このお店では何と18バーツ(約60円)でした
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次にメイン道路の向かい側にある『ワロロット市場』に行きました。
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チェンマイの代表的な市場『ワロロット市場』は、様々な食料品、衣料品、及び日常用品を扱う小さなお店がひしめき合っています。この市場には、地元住民だけでなく、観光スポートで人気が高く、多くの観光客が訪れます。

場所は、ナイトバザールのチャンクラーン通りを北上し、大きな交差点を渡り、更に約200m先にあります。(正確には、西側がワロロット市場、東側がトンラムヤイ市場。)

ワロロット市場でも場所のいい所は、金の売買のお店が多いです。
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私はいつもこの市場ではお茶を3袋買います。3つで100バーツ(約330円)です。
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この市場はほとんど前と同じですが、地下街はだいぶ変わりました。
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地下街の食堂がだいぶきれいになりました。
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それから、この地下街に山岳民族のお土産品コーナーが設けられました。
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『ワロロット市場』のすぐ近くに『山岳民族モン族』の市場もあります。
日本人観光客のSさんもお土産を買っていました。

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2016年08月26日

続・チェンマイの『バーンガート戦没者慰霊祭』


終戦記念日の戦没者慰霊祭がチェンマイでも行なわれ、私はバーンガート慰霊祭に参加いたしました。その日の午前中は、小雨が降ったり、止んだりする中で慰霊祭が行われました。 

バーンガート慰霊碑
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。

インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。
同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。


慰霊祭の後半は、青木チェンマイ総領事の来賓挨拶がありました。
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続いて、セリー・スワンナペッチ氏(慧燈財団副理事長、元バーンガート中高校校長)の来賓挨拶がありました。
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その次にモンコン・ガーワオバーンガート中高校校長の来賓挨拶がありました。
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最後の来賓挨拶は、大口ブアトーン会代表でした。
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ブアトーン会とは、第2次大戦での戦没日本兵への慰霊と、タイから出撃または引き揚げてきた日本兵を温かく見守ってくれた地元タイ人への感謝の気持ちを絶やさないことを主旨とした、在タイ邦人による「ブワトーン会」が2013年11月13日、バンコクで発足しました。
 

その後、焼香、献花がありました。
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この学校の生徒も焼香、献花していました。
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それから、この学校の生徒がタイで人気ある映画の主題歌を日本語で独唱していました。
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『ふるさと』の合唱がありました。
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庄司実行委員から閉会の辞がありました。
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記念撮影がありました。その日の出席者は90名でした。
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解散後、昭和天皇の御詠が刻みこまれた大梵鐘を鳴らし、追悼いたしました。
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その後、私は『ランプーン藤田慰霊碑』に参拝いたしました。
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『ランプーン藤田慰霊碑』に参拝したメンバーです。
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2016年08月24日

チェンマイの『バーンガート戦没者慰霊祭』


8月15日の終戦記念日、チェンマイでは2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。私は去年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加していましたが、今年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしました。

インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

バーンガート中高学校の正門です。
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チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。 チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。

校門の横には、日本語でバンガートウィタヤーコム校と書かれてあります。
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グランドでは、生徒たちがサッカーの練習をしていました。
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慰霊碑は学校の敷地内にあります。
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慰霊碑に行く道はちゃんと舗道されており、清掃も行き届いています
天気は小雨が降ったり、止んだりする中で慰霊祭は行われました。
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鐘楼(右)があり、左側の方に慰霊碑があります。
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慰霊祭の受付です。
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イギリス人のBさん(右)とバンコクから来た駐在武官のKさん親子です。
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ここの学生たちがワイ(タイの挨拶)で迎えていました。
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インパール作戦で亡くなれた1万8千名の英霊が眠る慰霊碑です。
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慰霊祭は、乗鞍実行委員の司会で始まりました。
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続いて、西田実行委員長の開会の辞がありました。
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その次に、黙祷を1分間いたしました。(日本の戦没者追悼式と同時黙祷)
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それから『君が代』の斉唱がありました。
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2016年08月22日

続・シリキット王妃の『84歳誕生日祝典』


8月12日(金)の夕方から旧市街の3人の王様像広場でも王妃の誕生日祝典が開かれました。その祝典の後半では、チェンマイ市長が王妃を称えるスピーチをした後、市民もロウソクを手に持ちながら、王妃の長寿を祈りました。その後は、華麗な踊りが繰り広げられていきました。

王妃の肖像画前にロウソクの灯が燈されました。
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チェンマイ市長が王妃を称えるスピーチをしていました。
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市民もロウソクを手に持ちながら、王妃の長寿を祈りました。
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夜空には花火が打ち上げられました。
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式典が終わった後、素晴らしいお母さんがチェンマイ市長や家族と記念撮影がありました。
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その後、華麗な踊りが繰り広げられていきました。
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次の出番を待っている踊り子のメンバーです。
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少数民族『タイヤイ族』の踊りもありました。
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『タイヤイ族』の踊りを楽しそうに見ている同じタイヤイ族のカップルです。
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