2017年08月
2017年08月31日
チェンマイの旧市街も『中国語がますます氾濫!』
チェンマイは雨期でシーズンオフですが、相変わらず中国人観光客だけは至る所で見かけ、目立ちます。それに連れて、中国語の看板が更に増え、チェンマイのシンボルである旧市街にも中国語の看板が目立つようになりました。
チェンマイといえば、お堀や噴水、ターペー門前広場、ワット・ プラシンなどのお寺、サンデーマーケットなどと旧市街を 思いだす人が多いと思います。もし、チェンマイに旧市街がなければ、どこにでもあるタイの田舎町にすぎません。旧市街はまさに、チェンマイのシンボルと言えます。
旧市街のタイレストランにも中国語が書かれてあります。
ホテルの名前も中国語でも。
不動産の売買にも。
バスの停留所にも中国語が。
交通違反を取り締まる検問所でも。
日本のラーメン屋にも中国語が。
旅行代理店でも。
物流サービス業のお店でも。
こんな中国語もありました。
3人の王様像広場の斜め向かい側の学校にも。
お寺の本堂にも中国語が。
同じお寺の本堂の服装についても中国語が。
中国人観光客から人気の高いターペー門前広場には、こんな中国語も。
この広場で鳩にエサを与える人が多くなって、鳩が増えすぎて、地域住民から苦情がきて、このような注意書きが出ています。しかし、中国人のなかにはその注意書きを無視して、鳩にエサを与えている人がいます。
ターペー門では、中国人の若い人の間で、婚礼衣装で記念撮影をするのが流行っています。
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2017年08月29日
2017年08月27日
2017年08月25日
続・チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』
8月15日の終戦記念日は、チェンマイでも2ヶ所で戦没者慰霊祭が開かれました。今年は旧市街から南側で行なわれたワット・ムーンサーンの慰霊祭に参加いたしました。
ワット・ムーンサーンとは、大東亜戦争中、チェンマイはインパール作戦の駐屯地となり、このムーンサーン寺には野戦病院がありました。そしてこの地で多くの日本兵がお亡くなりになられました。慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友とご遺族によって建立されたものです。毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。
司会進行は石井実行委員(右)とタイ語通訳はラチャパット大学のジェーンさん(左)でした。
友岡実行委員から開会の辞がありました。
慰霊祭はNHKテレビを見ながら、『東京の全国戦没者追悼式』と同時進行で行なわれました。
最初に『君が代』の斉唱がありました。
安倍総理大臣の式辞がありました。
その後、1分間の黙祷が行われました。
その次に、天皇陛下の御言葉がありました。
ワット・ムーンサーンの僧侶が戦没者の冥福を祈っています。
その間、参列者は合掌をしていました。
僧侶にお供え物をタンブン(寄進)しています。
その後、参列者は慰霊碑に献花、焼香をあげ、冥福を祈りました。
チェンマイ総領事館主席領事の黒江氏より追悼の辞がありました。
記念撮影も行われました。
式典終了後は軽食で雑談パーティーも行われました。食べ物や飲み物は無料でした。
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2017年08月23日
チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』
8月15日の終戦記念日、チェンマイでも2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。去年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしましたが、今年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加いたしました。
大東亜戦争中、チェンマイはインパール作戦の駐屯地となり、このムーンサーン寺には野戦病院がありました。そしてこの地で多くの日本兵がお亡くなりになられました。
慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友によって建立されたものです。毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。
慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友によって建立されたものです。毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
ムーンサーン寺は、旧市街の南門「チェンマイ門」を出て、ウアライ通りに進みます。約500m先の左手に『白牛の祠』があります。その祠の左側に銀を模した門(左)から細道を入った約100m先にあります。
ムーンサーン寺の真ん中の建物は本堂です。
このお寺の象徴である銀細工を模したアルミ細工があちらこちらにあります。
このお寺のあるウアライ通りは古くから銀細工の村として有名であり、今でも銀細工の工房が軒を連ねるエリアで、毎週土曜日の夜には歩行者天国となりナイトマーケットが開かれます。
右側が本堂で左側の建物の前に慰霊碑が建てられています。
タイは雨期に入っているので、地元チェンマイの人たちのおかげでテントも張られていました。
タイは雨期に入っているので、地元チェンマイの人たちのおかげでテントも張られていました。
受け付けは9時から開始されました。
慰霊碑(真ん中)の両側には日本とタイの国旗が飾られていました。
この慰霊碑には戦後、ご戦友とご遺族により『戦友よ安らかに眠れ』と刻まれ、1970年に建立されました。
自称『コボリさん』は毎年、この戦没者慰霊祭に参列しています。
自称『コボリさん』は日本や日本人が大好きな『タイ人』です。日本語はもちろんのこと、ひらがなやカタカナ、漢字も読めます。チェンマイで『コボリさん』に会ったら、是非日本語で声を掛けてください。
ラチャパット大学の日本語学科の学生はボランティアで参加していました。
慰霊碑の後ろの建物には、資料館があり、当時の写真、遺品などが展示してあります。
この資料館は普通は公開していません。特別な時に公開します。
僧侶にお願いすれば、開けてくれるかもしれません。
僧侶にお願いすれば、開けてくれるかもしれません。
今回の慰霊祭には、地元チェンマイの人たちも参列していました。
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