2018年08月

2018年08月30日

チェンマイの中心街は『今年も中国語が氾濫!』(3)


チェンマイは今、雨期に入り、シーズンオフを迎えて、観光客は少なくなっています。しかし、中国人観光客だけはどこにでも見かけ、とても目立ちます。チェンマイの中心街には、中国語の新しい看板などが更に増え続けています。

私のパソコンの調子がおかしいので、修理に出します。次回のブログ更新は9月7日(金)を予定しておりますので、よろしくお願いいたします。

チェンマイの中心街は、更に中国語の看板などが増え続けています。
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不動産関係の中国語も増えています。
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こんな中国語もありました。
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旧市街にもこんな中国語が。
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これも旧市街です。
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旧市街の3人の王様像広場の向かいにも、中国で流行っている貸自転車が登場しています。
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チェンマイ市内のあちらこちらで貸自転車が乗り捨てられてのを見ます。
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旧市街のシンボル『ターペー門前広場』には、いつも中国人観光客が押し寄せています。中国人だらけの時もあり、その時は中国にいるような錯覚に陥る場合があります。
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中国の若いカップルの間には、婚礼衣装でターペー門で記念撮影をするのが流行っています。
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2018年08月28日

続・ランプーンの『ラムヤイ(リュウガン)祭り』


ランプーンの有名な『ラムヤイ(リュウガン)祭り』は、24日(金)~31日(金)開かれています。私はお祭りの2日目(25日)午後から見に行きました。

お祭り会場になったのは、ランプーンのシンボル『ワット・プラタート・ハリプンチャイ』の向かい側にあるクワン川沿いです。
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2時半にお祭り会場に着いた時は、人はまばらでした。
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その後、人がどんどん増えて行きました。
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会場には、飲食や特産品、農産物などの露店が並んでいました。
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ソムタム(タイ風サラダ)はとても人気がありました。
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ラムヤイも販売されていました。
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ランプーンの特産品も販売されていました。
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ランプーン製の民族衣装を着ている女性です。
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ステージでは、ランプーンの食材を使った料理コンテストが行われていました。
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ラムヤイ(真ん中)を使った料理をしています。
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次の出番を待っている踊り子のメンバーです。
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2018年08月26日

ランプーンの『ラムヤイ(リュウガン)祭り』


チェンマイの隣県であるランプーンは、ラムヤイ(リュウガン)の産地として有名です。そのランプーンでラムヤイ(リュウガン)祭りがあるので、昨日の土曜日(25日)午後から見に行きました。

ランプーンとは、(タイ国政府観光庁より引用)
チェンマイから南へ約30キロメートル、11世紀頃からランナー王国に統合される13世紀末まで、モーン族によるハリプンチャイ王国の都として栄えていたランプーン。山間盆地にあり、北部地方の県の中で最も小さいながら、チェンマイやランパーンなどの周辺都市よりもはるか前に仏教が花開き、その中心となった地です。
市街地には現在も隆盛の時代を偲ばせる格式高いランナー様式の仏塔がそびえ、仏教寺院も数多く残っています。地元住民の多くは、18世紀頃に中国の西双版納より移り住んだタイルー族を祖先とし、細かな浮織りが施された織物など独自の文化を守り伝えています。国立公園でのトレッキングなど、豊かな自然を楽しむこともでき、ラムヤイ(竜眼)祭りが行われる7~8月頃は、パレードが町なかを練り歩きます。

ランプーンのラムヤイ(リュウガン)祭りは、今年は8月24日(金)~31日(金)8日間、開かれています。
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ラムヤイ(リュウガン)は樹木は5m~10mほどに生長します。2cmほどの丸く茶褐色の果実をブドウの房のように一度に多く実らせます。
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リュウガン(タイ語でラムヤイ)は東南アジアから中国南部原産の常緑樹です。主な生産地は福建省など中国南部、台湾(特に南投県と嘉義県が一番有名)、タイ、ラオス、インドネシア、ベトナム、日本では沖縄の八重山列島などの一部地域です。
樹木は5m~10mほどに生長します。2cmほどの丸く茶褐色の果実をブドウの房のように一度に多く実らせます。

果肉(仮種皮)はブドウに似た白く果汁の多いゼリー状で、中央の中に大きな種子があります。
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ランプーン行きの車は、チェンマイのワロロット市場の川沿い通りから白いミニバスが出ています。
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このミニバスは15名乗りで、エアーコンが効いていて、快適でした。運賃は25バーツ(約90円)で、ランプーンまで約45分掛かりました。

これから、ランプーンの市街地に入ります。
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ランプーンのシンボル『ワット・プラタート・ハリプンチャイ』です。
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本堂はランナー様式の美しい建物です。
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これから、お参りをします。
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本堂の仏像です。
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大きな仏像を安置している場所もありました。
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ジャーマテーウィー女王は今では、ランプーンの人の信仰の対象になっています。
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663年には現在のタイ中央ロッブリーより王女ジャーマテーウィーが女王として迎えられ、「ハリプンチャイ王国」が始まりました。女王は仏僧やバラモン教の祭司、学者、大勢の職人を集め、この王国に仏教を伝え広め、繁栄をもたらしました。


お寺の周りには、一昨日(24日)の夕方より行われた“ラムヤイ山車パレード”に参加した山車が、展示してありました。
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2018年08月24日

続・チェンマイの戦没者慰霊祭『バーンガート会場』


73回目の終戦の日を迎えた8月15日は、戦没者慰霊祭がチェンマイでも行なわれ、私はバーンガート慰霊祭に参加いたしました。

バーンガート慰霊碑
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。
チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。

インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。
同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

慰霊祭は、乗鞍実行委員の司会で始まりました。隣には通訳のタイ人女性がいました。日本語とタイ語で進められていきました。
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続いて、庄司チェンマイ日本人会副会長の開会の辞がありました。
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その次に、黙祷を1分間いたしました。(日本の戦没者追悼式と同時黙祷)
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それから、『君が代』の斉唱がありました。
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地元の学生によるタイ国歌の斉唱がありました。
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慰霊祭の後半は、川田チェンマイ総領事の来賓挨拶がありました。
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続いて、セリー・スワンナペッチ氏(慧燈財団副理事長、元バーンガート中高校校長)の来賓挨拶がありました。
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その次にモンコン・ガーワオバーンガート中高校校長の来賓挨拶がありました。
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最後の来賓挨拶は、大口ブアトーン会代表でした。
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ブアトーン会とは、第2次大戦での戦没日本兵への慰霊と、タイから出撃または引き揚げてきた日本兵を温かく見守ってくれた地元タイ人への感謝の気持ちを絶やさないことを主旨とした、在タイ邦人による「ブワトーン会」が2013年11月13日、バンコクで発足しました。
 
その後、焼香、献花がありました。

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『ふるさと』の斉唱がありました。
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山内実行委員から閉会の辞がありました。
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記念撮影がありました。その日の出席者は73名でした。
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2018年08月22日

チェンマイの戦没者慰霊祭『バーンガート会場』


8月15日の終戦記念日、チェンマイでは2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。私は去年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加していましたが、今年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしました。1944年のインパール作戦での戦没者の慰霊碑がチェンマイには2ヵ所あります。

インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

バーンガート中高学校の正門です。
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チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。 チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。

校門の横には、日本語でバンガートウィタヤーコム校と書かれてあります。
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グランドにはタイ国旗が掲揚されています。
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スポーツ大会の応援練習をしていました。
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慰霊碑は学校の敷地内にあります。
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日本語でも書かれてあります。
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鐘楼(右)があり、左側の方に慰霊碑があります。
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慰霊祭の受付です。
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ここの学生たちがワイ(タイの挨拶)で迎えていました。
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インパール作戦で亡くなれた1万8千名の英霊が眠る慰霊碑です。
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飲み物も用意されていました。
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この戦没者慰霊祭には73名の参列者がいました。イギリスやタイ人もいました。
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