2019年08月
2019年08月21日
セントラルフェスティバルの『ジャパンウィーク』開催
セントラルフェスティバルの『ジャパンウィーク』が8月16日~18日(日)の3日間『セントラルフェスティバル』で開かれました。私は初日(16日)午後から開幕式を見に行きました。
『セントラルフェスティバル』はチェンマイ郊外の東側スーパーハイウエー沿いにある大型ショッピングセンターです。地下1階、地上5階で、2013年11月にオープンしました。チェンマイ唯一のアイススケート場があります。
チェンマイは今、雨期に入り、この日も午後から雨が降りました。
館内は綺麗な広々としたゆったりとした空間を演出しています。
『ジャパンウィーク』は1階フロアで行われ、おおぜいの人が訪れていました。
会場には、バンコクから旅行代理店やコーヒー店、居酒屋など16団体が参加して、自分のお店のアピールをしていました。
大福もちはとても人気がありました。1個50バーツ(約175円)でした。
こちらは浴衣の着付けの体験コーナーです。
ステージでは、バンコクから人気アイドルグループの歌とダンスが行われていました。
人気アイドルグループが歌とダンスが終わり、インタビューを受けています。
その後、松本チェンマイ総領事から挨拶の言葉がありました。
松本チェンマイ総領事たちのテープカットです。
日本舞踊が披露されました。
ステージの最後は、来賓や主催者、出演者などの記念撮影がありました。
記念撮影のコーナーもありました。
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2019年08月19日
続・チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』
8月15日の終戦記念日は、チェンマイでも2ヶ所で戦没者慰霊祭が開かれました。今年は旧市街から南側で行なわれたワット・ムーンサーンの慰霊祭に参加いたしました。
ワット・ムーンサーンとは、大東亜戦争中、チェンマイはインパール作戦の駐屯地となり、このムーンサーン寺には野戦病院がありました。そしてこの地で多くの日本兵がお亡くなりになられました。慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友とご遺族によって建立されたものです。毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。
司会進行は石井実行委員(左)とタイ語通訳はチェンマイ大学のポムさんでした。
友岡実行委員から開会の辞がありました。
今年の参列者は120名でした。
慰霊祭はNHKテレビを見ながら、『東京の全国戦没者追悼式』と同時進行で行なわれました。
最初に『君が代』の斉唱がありました。
安倍総理大臣の式辞がありました。
その後、1分間の黙祷が行われました。
その次に、天皇陛下の御言葉がありました。
ワット・ムーンサーンの僧侶が戦没者の冥福を祈っています。
その間、参列者は合掌をしていました。
その後、参列者は慰霊碑に献花、焼香をあげ、冥福を祈りました。
チェンマイ総領事館主席領事の黒江氏より追悼の辞がありました。
今回は参列者が120名のため2回に分けて、記念撮影を行いました。
バンコクから駐在武官T氏(左)とコボリさんです。
自称『コボリさん』は日本や日本人が大好きな『タイ人』です。日本語はもちろんのこと、ひらがなやカタカナ、漢字も読めます。チェンマイで『コボリさん』に会ったら、是非日本語で声を掛けてください。
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2019年08月17日
チェンマイ戦没者慰霊祭『ムーンサーン会場』
8月15日の終戦記念日、チェンマイでも2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。去年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしましたが、今年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加いたしました。
大東亜戦争中、チェンマイはインパール作戦の駐屯地となり、この『ムーンサーン寺』には野戦病院がありました。この地で多くの日本兵がお亡くなりになられました。
慰霊碑は奇跡的に祖国へ帰国の叶ったご戦友によって建立されたものです。毎年8月15日終戦の日に、この慰霊碑の前にてチェンマイで戦没された方々を追悼する慰霊祭を執り行わせています。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
ムーンサーン寺は、旧市街の南門「チェンマイ門」を出て、ウアライ通りに進みます。約500m先の左手に『白牛の祠』があります。その祠の左側に銀を模した門(左)から細道を入った約100m先にあります。
ムーンサーン寺の真ん中の建物は本堂です。
本堂の中にある仏像です。
本堂の壁には、過去世の釈迦を描いた絵があります。
境内には銀細工を模したアルミ細工があちらこちらにあります。
このお寺のあるウアライ通りは古くから銀細工の村として有名であり、今でも銀細工の工房が軒を連ねるエリアで、毎週土曜日の夜には歩行者天国となり、ナイトマーケットが開かれています。
右側が本堂で左側の建物が郷土資料館です。その前に慰霊碑が建てられています。
タイは雨期に入っているので、地元チェンマイの人たちのおかげで青いテントも張られていました。
受け付けは9時から開始されました。
慰霊碑(真ん中)の両側には日本とタイの国旗が飾られていました。
この慰霊碑には戦後、ご戦友とご遺族により『戦友よ安らかに眠れ』と刻まれ、1970年に建立されました。
慰霊碑の後ろの建物には、郷土資料館があります。
その資料館には、日本軍の遺品や写真などが展示してあります。
この資料館は普通は公開していません。特別な時に公開します。
僧侶にお願いすれば、開けてくれるかもしれません。
日本軍が使った古井戸も保存されていました。
慰霊祭には、地元チェンマイの人たちも参列していました。
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2019年08月15日
チェンマイの園芸展は『ランの花がイッパイ!』
チェンマイはタイ北部にありますが、冬でも日中は30℃を超す常夏の地域で、いつも緑と花に囲まれています。一歩外に出ると、花々や木々が優しく迎えてくれます。チェンマイに住んでいる人々にとって、花や木はいつも身近に感じ、とても愛すべき存在なのです。そのチェンマイで8月9日(金)~12日(月)の4日間、旧市街の3人の王様像広場で『ランナー園芸展』が開かれました。
3人の王様像(真ん中上)広場周りで『ランナー園芸展』が開かれました。会場には、観葉植物や盆栽、サボテンなどが展示されていました。
その中で1番人気があったのは、ランの花でした。
美しいランの花をお楽しみください
はるばるイサーン(タイ東北部)から車でやって来た日本人Wさん(右)とコンケン大学のメンバーです。
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2019年08月13日
ターペー門広場で『チェンマイ伝統文化の祭典』開催
チェンマイは1296年にランナー王国のメンラーイ王が旧市街に王都を造って以来、現在でもタイ北部の経済の中心として発展しています。700年以上の歴史を誇るチェンマイには、独自の文化、伝統が残り、人々の生活に息づいています。
この祭典が8月9日(金)~11日(日)の3日間、旧市街のシンボル『ターペー門広場』で開かれました。私は開幕式のある初日(9日)の夜、行って来ました。
ステージでは、開幕式が行われていました。
その後、ステージではチェンマイの伝統舞踊が繰り広げられました。
少数民族『タイヤイ族』の踊りも披露されました。
タイヤイ族の『ドゥー』(鹿に似た架空の動物)も登場しました。
これもタイヤイ族の『ギンカラー』(孔雀に似た架空の鳥)の踊りも披露されました。
伝統文化の代表の女の子も出席していました。
会場には、チェンマイ伝統料理や手工芸品などのお店が並んでいました。
灯篭などにきれいな紙を飾り付けをしている職人さんです。
サンパトーン郡のルーンローイさんは、101の古い家を描いて、本としても出版しました。
これらの絵は、ルーンローイさんが描いた絵です。古い家の中には将来壊されて、無くなる家も出てくるので、今のうちに絵として残しているそうです。
旧市街から南側にあるウアライ通り(サタデーマーケットで有名)は銀細工通りでも有名です。その後ろでは、銀細工の実演をしています。
サラピー郡では、チェンマイの伝統提灯や灯篭を作っています。
今夜、伝統舞踊を披露した踊り子のメンバーです。
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