行事
2024年11月14日
チェンマイ日本人会の『第25回チャリティーバザー』
チェンマイ日本人会恒例の『チャリティーバザー』がこの前の日曜日(10日)午前中、ナイトバザールの南側にあるパンティプラザの向かい側の広場で開かれました。
この日は日用雑貨や古着、おもちゃ、古本など他に、焼きそば、コロッケ、味噌おでんなどの屋台もありました。
このチャリティー・バザーの売上金は、毎年タイ赤十字チェンマイ支部へ寄付し、タイとの友好親善に貢献しています。
大ぜいの人がお目当ての商品を求めて、品定めをしていました。
古着コーナーです。
日用雑貨は人気がありました。
おもちゃコーナーです。
古本コーナーです。
わた飴コーナーです。
味噌おでんも人気がありました。
あられも売っていました。
たくさんの商品を買って、大喜びのタイ人です。
他のブログを見たい方はクリックしてください。
onaga1951 at 01:13|Permalink│Comments(2)
2023年08月24日
続・チェンマイの戦没者慰霊祭『バーンガート会場』
78年目の終戦の日を迎えた8月15日は、戦没者慰霊祭がチェンマイでも行なわれ、私はバーンガート慰霊祭に参加いたしました。
バーンガート慰霊碑
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍は戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
慰霊祭は、乗鞍実行委員の司会で始まりました。隣には通訳のタイ人女性のミエ先生(バーンガート高校の日本語教師)がいました。日本語とタイ語で進められていきました。
最初に黙祷を1分間いたしました。(日本の戦没者追悼式と同時黙祷)
それから、『君が代』の斉唱がありました。
続いて、地元の学生によるタイ国歌の斉唱がありました。
慰霊祭の後半は、チェンマイ総領事の堀越氏の来賓挨拶がありました。
続いて、慧燈財団のモンコン氏の来賓挨拶がありました。慧燈財団は慰霊碑建立や奨学金支援の活動をしています。
それから、バーンガート中高校校長のソムチャイ氏の来賓挨拶がありました。
その後、焼香、献花がありました。
『ふるさと』などの斉唱がありました。
チェンマイ大学に留学生している日本女子学生も参列していました。
この席上でチェンマイに功績にあった人々が紹介されました。埼玉出身の堀田氏は長年日本語指導をボランティア活動しています。
最後は記念撮影がありました。その日の参列者は60名でした。
他のブログを見たい方はクリックしてください。
onaga1951 at 01:43|Permalink│Comments(0)
2023年08月17日
チェンマイの戦没者慰霊祭『バーンガート会場』
8月15日の終戦記念日、チェンマイでは2つの会場で戦没者慰霊祭が行なわれました。私は去年は旧市街から南側にあるムーンサーン寺の慰霊祭に参加していましたが、今年はメーワン郡にあるバーンガート慰霊祭に参加いたしました。1944年のインパール作戦での戦没者の慰霊碑がこのチェンマイには2ヵ所あります。
インパール作戦とは、東亜戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。日本軍の戦闘能力を過信し、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
バーンガート戦没者慰霊碑です。
バーンガート戦没者慰霊碑です。
この赤いソンテウで、オーキッドホテルから8時15分に出発しました。ソンテウ代は往復で200バーツ(約800円)でした。
バーンガート中高学校の正門です。
チェンマイ市郊外にあるメーワン郡バーンガート中高学校の敷地内には、インパール作戦で亡くなれた約1万8千名の遺骨が納められている慰霊碑があります。 チェンマイ市内から学校の慰霊碑までは約35kmで、車で1時間ぐらい掛かります。
校門の横には、日本語でバンガートウィタヤーコム校と書かれてあります。
戦没者慰霊碑と日本語でも書かれています。
慰霊碑は学校の敷地内の奥にあり、その入り口です。
慰霊碑の右側には、鐘楼があります。
鐘楼の鐘には、昭和天皇の和歌があります。
受付は地元のバンガート学校の高校生が担当してくれました。
バンガート学校の高校生が暖かく迎えてくれました。
この日の参列者は大人が35名、高校生が25名でした。
当日の式次第については、次回(来週の木曜日)にお知らせします。
他のブログを見たい方はクリックしてください。
onaga1951 at 03:47|Permalink│Comments(0)
2023年06月22日
旧市街恒例の『チェンマイ平穏祈願』儀式
8日(木)の午前中、チェンマイの平穏を祈願する儀式が旧市街の10ヶ所において行われ、私は3人の王様像広場へ行きました。その広場には大ぜいの人が儀式に参列していました。
チェンマイといえば、お堀や噴水、ターペー門広場、ワット・ プラシンなどのお寺、サンデーマーケットなどと旧市街を思いだす人が多いと思います。もし、チェンマイに旧市街がなければ、どこにでもある田舎町にすぎません。旧市街はまさに、チェンマイのシンボルであります。
広場では3人の王様像を挟んで、両側に大きなテントが張ってありました。
大きなテントの中で僧侶が読経し、チェンマイの平穏を祈願しています。
テントの天井には白い糸が張られ、参列者はそこから垂れ下がった白い糸を頭に巻いています。そうすれば、長寿と幸せがくると信じられています。
テントの向かい側でも白い糸を頭に巻いています。
広場の周りには、砂の仏塔の上に旗が立てられていました。
タンブン(寄進)も受け付けていました。
その後、僧侶にタンブン(寄進)をしています。
これで儀式は終了しました。
儀式が終わり、参列者は帰る時に、聖水をいただきます。この聖水を家に持ち帰り、家族の頭や顔、または部屋の中に振りかけ、身を清めます。
参列者は無料で飲食が振舞われました。
果物やプリンなどもありました。
他のブログを見たい方はクリックしてください。
onaga1951 at 00:30|Permalink│Comments(0)
2023年01月19日
タイの子供の日『空軍基地開放』
1月14日(土)は、子供たちが待ちに待っていた子供の日(タイでは、毎年1月の第二土曜日)でした。チェンマイでもデパート、病院、地域集会所など様々な場所でイベントが行なわれました。空軍基地でもその日は、基地を開放して、子供たちのサービスに務めていました。私はその日の午前中に見に行きました。
空軍基地はチェンマイ空港の向かいにあります。
イベント会場前には、おもちゃ、食べ物など様々な露店が並んでいました。
おもちゃの露店がたくさんありました。
会場に入ると、子供たちはお菓子や風船がもらえました。
大ぜいの家族連れが訪れ、様々な兵器が展示されていました。
会場には、いくつかの戦闘機などが展示してあり、乗ることができました。
ステージでは、ダンスのコンテストが行われていました。
他のブログを見たい方はクリックしてください。
onaga1951 at 02:06|Permalink│Comments(4)